どんなに世の中がクソだったとしても

本を借りた話、その2。「本当はちがうんだ日記」著者 穂村弘さん。読書感想文です。

 

どんなに世の中がクソだったとしても、この人なら楽しんで生きていけるんじゃないかなって思う。本書では不安や怖いを乱発している作者だけども案外ポジティブっていう。ネガティブ要素を笑いに変える力があると言うべきなのか。でも実は楽しんでいるんじゃないのかなぁって僕は思った。本を読んだ時に一発で僕は、この方の作風をパクったんじゃないかなって感じた。

 

似ている。めっちゃ似ているのだ。僕のブログと。お笑いで言う、ネタ部分が同じで骨格と肉付けが違うっていう大枠で見た時に同じ構成をしていてビビった。まぁ、お笑いのネタなんて作った事ないし、作者と何者でも無い僕を比べるのは、おこがましい話なんですけどね。その、おこがましさを無視して書いていこうと思う。もちろん、文章の上手さとか伝え方とかプロなので僕とは違う。でも、物事の捉え方が似ているのかもしれない。

 

僕の延長線上には、作者がいるのかもしれない。それはそれで絶望感溢れるんだけどね。しかし、ピッタリ同じ価値観の人間なんて存在もしない。だからこそ人は、言葉を使い、文字を書き、相手に何か伝えようとする。もし、作者が乱発している不安や怖いを伝える気があったなら、もっと違う作風になったと思うし、こんな風に面白いエッセイにならなかったと感じる。そして、自意識過剰って言葉だけでは解決出来ない文章が揃っていた。

 

何を伝えたかったか。僕には正解が分からないけど考えてみる。考えれば考えるほど答えは出てこない。

 

やっぱり。

 

でも、大人になりきれなかった大人みたいな感覚。世の中が、イイとしても、ダメになろうとも生きていかないといけないじゃんと言われているみたいに僕は思えた。

 

自分の老いや感覚を集めて吐き出された言葉が本書ならば、作者は変わる事を楽しんでいるし、変わらない感覚も楽しんでいる。世の中は常に動いているって言われる。でも実際に生活していて、急激な変化なんて感じないし、世界で今、この瞬間に変わった場面を目撃もしない。少しずつの変化を作者の言葉で伝えている。大人になると子供の頃のように純粋な気持ちで物事を捉える事が難しくなる。それを変わらない感覚と変わってしまった感覚の2つを持ち合わせている人間が穂村弘さんなんじゃないかなって。そんな風に感じた。

 

実は、こんな文章を書いたけど、作者が何をされている方か知らないし、他の本も調べてもいないのです。この本だけが似ているのか。小説家さんなのか。調べもせずに、この本のみをガーっと読んでしまったのです。だから作者や作者関連の詳しい事は分からないのです。

僕も感覚のみで遊んでいるのかもしれない。この世界で。

 

ゆうと