若者たちと成人の日

もうこの年齢になると成人の日が普通の祝日に感じちゃうわけです。成人をやらせてもらって15年か16年くらいになるけど、ちゃっかり大人やっているわけですが僕には未だに大人ってことが分からないことがある。こう僕みたな、やる気が無いように見える人間からするとギラギラした、やる気がみなぎってる人からダメ出しを受けることが多々ある。僕はやる気が無いわけでもないんですけど。ギラギラしている人はみんな同じような言葉を言う。例えば『良い歳なんだから1流の物を身に着けなさい』とか『良い歳なんだから髭をそりなさい』とか『髪を切ってスッキリさせなさい』とか注意を受けちゃうわけです。

 

良い歳だから良い物を身に着けなさいって言われて、ハイブランドとか言われる店舗に行こうと思ったけど店舗の前で止まった。僕は行けない。敷居が高い。ほんとに敷居って高いんだなって感じる。それは僕の経験不足なんですけど、フラっと入ることが出来ないわけです。大人なんだけど入れないよね。店舗を覗いてみると接客をしている様子が目に飛び込んだ。1人にスタッフの方が1人付いている。もう無理だよね。それが1流なのかもしれないけど。

 

髭は週1回しか剃らないし、上手く剃れない。だから週末は伸びてる。剃り残しもある。髪も意識しているけど話しかけらるのも気を遣うので、あまり行きたくない。散髪に行く時は、かなり気合を入れて散髪に行くわけです。

 

弱者は強者にマウントされている。

 

僕は圧倒的に弱者だと思う。それでも良いとも思う。今から強者になれる気がしないから。弱者なりの生き方をすれば良いと僕は思っている。それは強がりとかじゃなくて、そういう生き方しか出来ないと諦めているところもある。それで良いと思うし、強者は強者で無理強いをしないでね位の感情で話を流していたりする。

 

そんなことを書いていたら、おじさんの今時の若い奴は的な話しに似ているなぁって思った。僕から見れば若い方は、どこか記号的。悪い意味じゃないよ。でもその記号の先に僕たちは居ない。そう若い奴が発信する先。その先にはオジサンやオバサンに矢印が向けられていないだけなのだ。だから若い内に、その記号的な部分をドンドン出していけば良いと思う。きっと僕も歳を取って若い方に付いていけなくなってきたから言葉として『記号的』って表現してしまうのかもしれない。

僕は若い人は強みであり、優秀だと思っている。だから普通に凄いよなぁと感心してしまう。しかし、そのへんのオジサンから見たら若者は弱者になる。その辺りのことを考えてしまうのは、やっぱり僕が弱者側の人間だからだろうか。